「お水いっぱい飲んだからね。」

 昨夜、息子が珍しくごはんをモリモリ食べ、食べ終わった後の息子のお腹をさすりながら、私が言った「お腹パンパンだね!」に対する息子の言葉だ。大人がよく使う、「昨日飲みすぎてむくんでるんだよね」と同じ手口の言葉を当たり前のように使う息子を目の当たりにして、「よしよし、成長してるな」などと感傷に浸っていたのだが、「3歳児でも気にしているんだ」と強く反省をした。

 思い返してみると、私にもそんな経験がある。久し振りに会った知人に会って早々、「利行さん太りましたね」と言われて、イラッとしたことがある。しかし、気の弱い私はそのことを否定もできずに「いやぁ、幸せ太りですよ」と顔を引きつらせながら言ってしまった。その顔の引きつり具合は、清水アキラがセロハンテープでやる「アレ」に匹敵するくらいの引きつりようだったと思う。

 デブには2種類あると思っている。先天的デブと後天的デブだ。

 先天的デブをわかりやすく伝えるとすれば、ちびまる子ちゃんで言えば小杉のような子。要するに、小学校の時にクラスで1人はいたような、小さい時からちょっとぽっちゃりしていた子だ。一方、後天的デブはというと、昔の輝かしい時代を「あの頃の俺は…」などと振り返りがちなおじさんがそれに当たる。デブではないが、モト冬樹が昔の写真で「あの頃は髪があったんだ」と言う姿に近い。

 では、私はどちら側のデブかと言うと、後者の後天的デブに当たる。高校に入る前の私は、身長178センチ・体重58キロと、モデルのようなスラッとしている体型を維持していた。友人の母親からは会うたびに、「高松くんは顔が小さくて身長も高くて羨ましいねぇ」などと言われ、いつも言われる度にまんざらでもない表情を浮かべていたような子だった。

 今自分親になって思うが、どんなにぽっちゃりの子だろうが、どんなに痩せていてカッコいい子どもであろうが、自分の子どもが一番かわいいというのは世界の共通認識だ。犬や猫でさえ「自分の子が一番かわいい」と思うのだ。あの時の友人の母親は「これを言えばあいつは喜ぶ」とわかっていてわたしをおだてていたのだろうが、その時は芸能人にでもなったような気になってとても気持ちがよかった。

 しかし、高校3年生くらいから徐々に太りはじめ、今現在も乳児の成長曲線を描くがごとく急成長を遂げている最中だ。もちろん自分に自覚がないわけではない。むしろその成長を止めるために夜な夜なGoogleで「ダイエット 最新」と言う検索ワードを入力しては、「そうなのか」と納得して眠りにつく努力は怠っていないつもりだ。

 私が大好きなコラムニストのジェーン・スーさんが記事でこんなことを書いていた。

 面倒と感動の戦で面倒ばかりが勝つときは、単に興味が向かないとか、疲れているだけってこと。意気地がないとか、やる気がないという話ではないのかもしれない。アップルコンピュータの故スティーブ・ジョブズやフェイスブックのマーク・ザッカーバーグが毎日同じ服を選ぶのは選択の負荷を減らすためと言われているが、あの手の天才たちでさえ、面倒と感動の戦~被服編~では常に面倒が勝っているわけだ。毎日同じ服を着ているからって、「やる気がない」と彼らを見做す人はいないだろう。

出典「おつかれ、今日のわたし。」https://kinomegumi.co.jp/good_nights/otukare19/

 今のわたしは「面倒と感動の戦で面倒ばかりが勝つ」時なのかもしれない。夜な夜な眠い目をこすりながら「ダイエットをしたい」と検索をするだけのやる気はあるのだ。

 ダイエットと面倒を天秤にかけた状態で、今の私は面倒の重さがダイエットの重さを上回っているだけ。ややこしい話だが、ダイエットがぶくぶく太っていって、面倒よりも重くなった時にようやくダイエットが開始できるということになる。

 人には表には出ていないが内側でメラメラと燃やしているやる気はあるのだ。ただ、それを行動に移せない理由があるだけ。人を変えるのは大変難しいことだ。自分が変わるしか方法はない。

 ならば次に「太りましたね」と言われた時は胸を張ってこう言おう。

「ダイエットのやる気を太らせてくれてありがとう」と。